1本の電話

2007年7月 早朝、
東署から電話。
「・・さんですか?こちらは警察です」・・・・
「お宅の実家に泥棒が入りましたので至急来て下さい」・・
すべてはここから始まりました。
梅雨時の雨が続いた日の朝の事でした。 言うまでもなく私はドキドキしてとにかく現場に行くしかなくちょうどまだ地元にいた息子のワイフと孫と駆けつけました。
実母にはショックが大きすぎると判断しての事でした。
実家に着くと土塀の周りは警察に取り囲まれてまさにたった今、泥棒を取り逃がしたって状況でした。
何故なら取り損なった物が田んぼにまだ落ちていました。
蔵に穴が開けられてそこから入ったのです。
隣の方がそれに気付いて通報してくれたのです。
「渡邊」は8年程、息子が住んでいて新婚生活もした場所です。
独身の頃は番犬もいて子供たちに勉強を教えていたので毎日人の出入りも多かったので
何の心配もなくはっきり言って鍵をしないでも全然大丈夫でした。
息子夫婦に赤ちゃん誕生と共に市内でマンション住まいをしてほんのわずかの間に泥棒は眼を付けていたのでしょう。


見事にやられていました。


そう言えば雑草は生えっぱなし、大きな木々は伸び放題。
家の中には畳のヘリから竹が出ていました。
現実を知った母はいったい何が盗られたか定かでなく途方に暮れる日々でした。
母は「あーーー夢も希望もなくなった・・・」と嘆き悲しみました。
多くの茶人が集まって華やかだった茶室もただのボロヤになって私の重荷になるのかと途方にくれました。
警察の事情聴取の後で母と食事をした時に何とかここでまたお茶会ができるようにしょう・・・って母を慰める事だけを思って言ってしまいました。それは無茶な事とわかっていました。本当に手がつけられない状態にまでなっていました。
一カ月が過ぎた頃に久々に会った友人に「元気がないけどどうしたの?」の言葉にやっとこの泥棒騒ぎの一部始終を話しました。その友人が「それならそこに連れてって」と言われで向かいました。
残念ながら鍵がなく外から見てもらいました。
「ここは凄いから掃除して人に見せたらいいよ」・・・・・。
この日も雨の日で私の気持ちは「そうかな〜」程度でした。
07/21/2010

まずはお掃除から


数日後、その友人から以前から気になっていた家なので見たいと言うご夫婦がいるので会ってほしいと連絡が入りました。
まだ暑い夏の終わりでした。
何も手が付けられていないままの家を汗をぬぐいながら見て回りました。
畳の上もザラザラでソックスや足がが真っ黒になりながら。
それが泥棒騒ぎ後の初めてのお客様でした。
イタリアンレストランまんじゃーれを経営するご夫妻でご自宅からお店までの出勤途中、道路の隙間から見える「渡邊」を見て興味を持っていたそうです。
クモの巣や蚊もいる中で3時間以上は話をしました。
家の成り立ちや亡父の事を熱心に聞いて下さって最後に言って下さったのは「この家を再建しましょう・・・!」でした。
私は若い音楽仲間に以前から古い実家がそのままある事を話していました。
彼らからも見せてほしいと何度も言われ続けていました。
そして9月末に彼らは掃除に行くからとプランを立ててきました。
3人の掃除乙女隊は一気に茶室「雀巣庵」とお手洗いを掃除。
埃まみれになりながらの作業でした。
終わって座りこんでこの家に付いての案が出されました。
デザイナーでもあるYUCCOは頭の中ですでに構想が沸いてきたと言い始めました。
「来年の秋、ここで私の作品展をするよ!」・・・・・。
とてつもない夢のような事を・・・。
(そしてこのご夫妻と掃除乙女隊は強力な応援団となって行きました)
07/22/2010

揚家から渡邊へ



「雀巣庵」は4人の掃除乙女隊ですっかりきれいになりました。
少しずつ蘇って私もモチベーションが上がってきました。
さっかくきっかけを作ってくれた彼女たちに次はここでお茶をゆっくり飲んでもらえたらと思い2か月余りかけて私は各お茶室の掃除をしました。
とても孤独だけど私がやらなければ何も始まらないと思いました。
それは目に見えて綺麗になりました。
それでも母は「こんなんじゃ、人は呼べないし無理!」・・・・・少しはよく頑張ってるね・・・って言ってくれればと何度も思いました。母は昔の「渡邊」の最高の輝きをはっきりと記憶の中で生きているのでなかなか納得してくれなかったのです。
お茶室が5つも6つもある家自体が想像できないでしょう。
50年前に亡父は縁続きでもある古高松の豪農「揚家」(あげけ)から譲り受けほとんどを移築しました。
揚家は時代の中で経済的にも苦しくなり3000坪の敷地の3分の2を銀行の社宅に処分ました。
敷地内の由緒ある茶室はどうしても揚氏が壊すのには忍びなかったのでしょう。
数寄者だった父にそれを託したと聞いています。
当時、小学生だった私も何度も揚家に行きました。
すでに草が生い茂りその頃の私には只の壊れかけの家にしか見えませんでした。
ご家族のお住まいは結構、近代的で籐の敷物の上に座って冷茶を飲んだ記憶があります。
おじ様はやさしくおば様は色が白くてとても品があって美しい方でした。
今でも東京で90歳を超えてご存命でその美しさは変わらないと伝わってきました。
お二人の間にいるお子様も皆さんお品があってお嬢様はとびきりの美人でした。
元々の「渡邊」は庄屋で農家でもあるので住まいの形もお茶室が合うはずがありません。
父がどんなに考え研究をして現在の「渡邊邸」になったか想像もできません。
ただ、毎晩寝床に入って新聞紙に墨で図面を書いていました。
移築に当たっての設計士がいた訳でもないので全てが父の思いのままに建てられました。
その為に何度も京都へ行きました。
もちろん一人娘の私を連れて。
父は学校教育よりも一流の物を見ることを重視していました。
普通に学校に行きたい私は学校を休む事も辛いし子供にとっては拷問の様な美術館や古美術、お寺めぐり。
東京に行けば歌舞伎観賞は必ず組み込まれていました。
普通じゃない人・・・・それが父でした。
気難しく寄せ付けない雰囲気なのに相手が気に入ればとことん話をして話術も上手くていつも誰かが来てよもやま話をしていました。ただ、気に入らないとバッサリ切ってしまう怖さもありました。
明治生まれの父は生涯をお茶にかけ他人にも自分にも厳しい生き方でした。

07/23/2010

母と娘

「渡邊邸」は秋を迎えました。
紅葉した木々の美しさは見事でこんなに家の庭は綺麗だったのかとため息が出ました。
それをあまり知らず気にもかけずにいた事に申し訳なさを感じました。


そうだ! 人をお呼びしよう・・・。


亡父(順久)は誰でも家には迎えませんでした。
それなりの心得と精通する方しかお招きしていませんでした。
「渡邊」の茶事に呼ばれたらお茶人として認められたと自信を持って下さったと聞いています。
渡邊に招かれたくとも順久から声が掛らなければ誰も入れなかった敷居の高さを私はまず取り払う事にしました。
家やお茶に興味のある方に知り合いであればおいで下さいと声をかけました。
前回のまんじゃーれからのお客様も快くお受けしました。
全部持ち出しでお抹茶を差し上げました。
母は「こんな不十分な事では失礼だし恥ずかしい」と反対の姿勢でした。
確かに綺麗になったとは言え、障子に穴も開き庭の雑草も生えていました。
でもこの家が完璧に再建するには資金も知恵もありません。
とにかく知っていただく事が大事と母の反対を押し切ってのスタートでした。
やがて、口コミで広がり母にも問い合わせの電話が多く掛ってきました。
この年と翌年の春までに来られたお客様は100人を優に超えていたと思います。
(日と時間を調整して家をアトランダムに公開しました)
やがて反対だった母も皆様からの反響を徐々に受け止めてくれるようになっていました。
07/24/2010

再び


「渡邊邸」は泥棒騒ぎから1年が過ぎました。
当時、85歳の母が市内でお茶のお稽古を続けていたものの時代と共に何十人と来ていたお弟子さん達も段々減って行きその愚痴を母から毎日聞かされる事にウンザリしていました。
齢が行けばいくほどに何でも悪い事は人のせいにするものでしょうけれどもう聞くに堪えないレベルでした。
母の愚痴とストレスを少なくさせる方法として考えたのは新しくお茶のお稽古を「渡邊邸」で立ちあげる事でした。私は母のお稽古に一切関わらず(嫌いだったので)その話題も聞き流す程度でした。
幼稚園から習い始めたお茶(表千家)も子供だった私は父の言う事には素直に聞くしかなく栗林公園「日暮亭」、玉藻公園「飛雲閣」・・・他いろいろな場所でのお茶会でお手前を経験しました。
お茶会でお歴々やお茶に精通した方々の前でのお手前は今でも心のどこかで誇りにしているかもしれません。
当時の名士はほとんどお茶の世界に入り会話を楽しんでいたように思います。
四季を愛でる心の豊かさがあったのだと思います。
揚家のお茶室は表千家好みで建てられているので一人娘の私にはどうしても「表千家」でなくてはいけなかったのです。
父は表千家の茶道具を集め三千家(裏千家、武者小路官休庵、表千家)の中でどこよりも尊敬していたように思います。
前回登場した掃除乙女隊のメンバーもお稽古には興味を持ってくれていてまた友達にもいると聞いていました。
「渡邊邸」のお茶室は正式ですべて整っているのですから後は教える母とお弟子さんが一人でもいればすぐにでもスタートできると思いました。
実施は梅雨が明けようとする7月でした。
市内からも30分以上かかる場所だしクーラーもないお茶室でどうなんだろう・・・・不安はたくさんありました。
母はハナから「誰があんな所に来るな、わざわざ車で来る人なんておらん・・・」相変わらずのネガティヴさに辟易。
「まぁ、騙された思って私の言う通りにやって」・・・強情な母を口説き落として二人でお稽古の準備を開始。
二人で雑巾がけを汗びっしょりになりながら私は離れていた母との距離が少しずつ近くなっているのを感じていました。
まずは体験お稽古から始めました。
とにかく全くの初体験なのでお茶用語がわからないのと所作もちんぷんかんぷんで戸惑うばかり。
午後からのお稽古は夕方まで続きモチベーションが高いお弟子さんとのやり取りで母も日頃のお稽古とは違う感覚を感じて久々に充実したお稽古だったと手ごたえを感じているようでした。
「雀巣庵」(茶室)は西と東が開き庭の緑の木々からの風が揺れて蚊取り線香のなつかしい香りが漂っていました。
08/02/2010

先代 渡邊順久という人


7月〜始まったお稽古も8月は暑いからとお休み。
9月に入ってお弟子さん達もモチベーションが高くて熱心なお稽古が続きました。
その中で見学にだけ来ていた友人がとうとう「私も弟子入りしたい」と言い始めました。
これならできると思ったのか興味を持ったのかは定かではありません。
このお弟子さんは皆勤賞で今や母の右腕として動いてくれています。
若いお弟子さん達からも「師匠!」なんて呼ばれています。
そんな中で掃除乙女隊にいたYUCCOの「一年後に展示会」は着々と計画が進んでいました。
実施は9月末の二日間。
我が家で展示イベントは初めてです。
YUCCOの想像性に任せて私は不安よりも新しく始まる何かにワクワクしていました。
父「順久」は2004年1月に95歳で亡くなりました。
渡邊は長寿の家系で父の姉(伯母)も90歳代で亡くなりました。
当時としては身体の大きかった父もすっかり齢と共に小さくなり大きな声もかすれていました。
若い頃からプレイボーイだったように亡くなるまで母とは違う女性が側にいて世話をやいてくれていました。
私は彼女とも会い話もした事が何度もありました。
複雑な環境の中でもし私が独身であれば分らない男女の関係であった事はまちがいありません。
最後までモテ男だった父でした。
それだけ母は苦労をさせられてその後ろ姿を見ながらの子供時代を過ごしました。
すべて思いのままに生きる、ほしい物は絶対に手に入れると言う執着心です。
芸術に関してもその通りでした。
言い出したら聞かない頑固で亭主関白でした。
父の前を母は決して歩かない事。
返事は「はい」だけで反論は許さない。
自分が法律・・・そんな人でした。

ただ、義理人情には厚く、して下さった事への感謝とお礼状は書でしたためてそれなりの物をまた送っていました。
我が子達が20歳になった時に父と家族で美味しいエビ料理を遠出して食べに行き帰りに際にそのお店の料理長とサービス係にチップとしてお金を包んで渡していたのを夫と息子が見て「かっこいいなぁーさすが、おじいちゃんや!」と言っていました。」
それだけに味にうるさく気に入らないと「まずい!」と平気で言っていました。
お蔵掃除から武者小路官休庵の若宗匠からのお礼状が見つかりました。
それには「渡邊さんに頂いたコーヒー代のおこずかいをありがたくいただきました」  
どんなに高額なコーヒー代だったのかと・・・。
「渡邊」での生活はしきたりの中で全てが行われていました。
08/12/2010

融合


小豆島のデザイナーYUCCOと妖怪画家の柳生忠平氏の作品展が「渡邊邸」で二日間行われました。
お座敷「念魚」と「雀巣庵」にYUCCOの作品。
「櫛窓」と仏壇の部屋に柳生忠平氏の妖怪画。
「孤月庵」でお茶席。
「渡邊」が完全に生まれ変わった瞬間でした。
父の愛したお茶室は現代の若者の感性で塗り替えられそして再び輝き始めました。
発想の転換はこんな形でできるのだと彼らの設営を見ながら感じました。

柳生忠平氏は当日まで夜を徹して作品と向かい合っていました。
妖怪と茶室のコラボレーションは画期的な事です。
それにしてもあまりにもピッタリで妖怪もあの時は「渡邊邸」で乱舞していたのではと思ってしまいます。
YUCCOはトロピカルな色使いの革バッグとアクセサリーと和風な小物がメイン。
彼女は「念魚の間」には色気を感じると気に行って構想通りにデコレーション。
それは和と洋の融合が素晴らしく何の違和感もなく色と空間が上手く生かせていました。
連日、思いもかけない程のお客様が来られました。
YUCCOと柳生忠平氏のファンとこれまで「渡邊邸」に来れなかった人たちでした。
イベントは大成功に終わりましたが、多くの問題点が残りました。
まず、庭の徹底的な掃除と障子の張り替え、そして駐車場でした。
父「順久」42歳の時に生まれた私は父が目の中に入れても痛くない・・・・この表現が誰よりもピッタリだと世間では言われていました。どこに行くにも片時も私を離さず寝る時もを抱いて寝ていました。
常に一流の物を身につけてくれて自転車もランドセルも東京日本橋の三越で買ってくれました。
当時は羽振りの良かった父でした。
東京に行けば必ず銀座で買い物をしてお寿司を食べ「千疋屋」でデザートコースでした。
今でも銀座に路面電車が走り、東京タワーが建つ様子を思い出せます。
銀座に行くと父が私の手を引いて歩いたあの時が浮かんで来ます。
学校などあまり気にせず私はしょっちゅう学校を休まされていた・・・・訳です。
08/13/2010

こけら落とし


ここ数年を駆け足で過ごして来たのでゆっくり木々の様子も見られずにいたら今年は「さるすべり」が咲き、萩が元気よく伸びてそろそろ花が咲きかけるでしょう。
「渡邊邸」の木はもみじが多くて新緑の頃は緑に、秋には紅葉が楽しめます。

お蔵の前のさるすべり


昔は北庭に大きな松がありましたが、松くい虫にやられて根こそぎ処分しています。
2008年秋 はYUCCOの展示会を9月に終わらせ、11月には「まんじゃーれ」企画の「秋楽会」。
「雀巣庵」と「念魚の間」でまんじゃーれのランチボックスを食べながら音楽を楽しんでいただきました。
庭にスピーカーを置いて本格的なライブに。
キャパ一杯のお客様でした。
庭で演奏してそれを部屋から見るという設営です。
恥ずかしながらオーナー自らの演奏もしてまるで「渡邊邸」 こけら落とし・・・・。
壊れかけた家が再建してこんなにたくさんの方々においでいただいて感無量でした。
YUCCOの仕掛けた「渡邊邸」大作戦は「まんじゃーれ」夫妻の応援でまた新たな展開を見せました。
マスターが心をこめて創作したイタリアン ランチは美味しくて純和風な「渡邊邸」にマッチしていました。私が求めていたおしゃれな感覚そのもでした。スタッフのよりいいものを提供したいその気持ちが成功を生んだと思います。
他に多くの「渡邊邸」応援団のお陰だと心から感謝の気持ちでした。


父は肝臓がんで亡くなりました。
もう早くからお医者さんからは今年が最後だと言われながら長く生きる事ができました。
皮肉な事に父よりも若かった担当医師の方が先に亡くなる程に父のガンはゆっくりとしたものでした。
父も病状を把握していてそれまでに出来る範囲で旅立つ準備をしていました。
ある日、私に言い残したのは「どんな事があってもこの家をうどん屋だけにはせんとってくれ!」・・・でした。
(不特定多数のお客様では家の良さが分かってもらえないと言う意味もあっての事と思います)
敷居の高さは父の家へのプライドだったと思います。
08/15/2010

長尾線


8月第四週 氷点前
蒸し暑い日のお稽古日でした。
クーラーのないお茶室で皆さんもうっすら・・・ビッショリ汗が。
いつもお茶花を摘んでくれるお弟子さん。

美味しい湧水を運んでくれるお弟子さん。
お茶カフェへどうぞと声をかけてくれるお弟子さん。
皆さんの応援がないと私なんてすぐにギブアップしてしまいます。
買い物に行ったお店で同時に入った青年に「どうぞお先に」と声をかけると
「渡邊邸はどこかと」・・・・偶然ながらとてもびっくりしました。
こちらのお店にお客様が分りにくい渡邊への道を聞かれる事を初めて知りました。
「お茶は好きですが、作法がわからないので・・・」とおっしゃりながらもお茶体験をしていただきました。今日も素敵な出会いが待っていました。
父は琴平電鉄の初代社長大西寅之助さんと懇意にしていました。
渡邊の裏をコトデン長尾線が走っています。
私が小さい頃は最終電車だと父が車掌さんに「おい、ここで降ろしてくれ!」と言えば家の裏に小さな木の台があってそこで降ろしてくれていました。
しばらくその木の小さなプラットフォームが線路横にあったのを覚えています。

古き良き時代の事と思います。
08/25/2010

意思を継ぐもの


夏休みもあと数日になりました。



私の子供時代の夏休みは8月1日から31日の一カ月。
いつから7月20日から始まるようになったのでしょう。
暑さも今みたいに毎日36度はなくてぜいぜい暑くて32度程度だったような気がします。
もちろんクーラーもなくて扇風機があるだけです。
家の人は夕方になれば家の周囲に水をまいて涼を取っていました。父親はステテコ姿で母はクレープの今で言うタンクトップワンピースみたいなのを着ていました。
私は両親と共に「渡邊」と番町にあった町宅を行ったり来たりしていました。
「渡邊」から市内の学校(四番丁小学校)にバスで通っていました。
あの頃は人口も多いのでバスも鈴なりで窓やドアから人が落ちるほどでその周囲を自転車通勤の人たちが取り囲むように走っていました。五番町の停留所で降りられずに兵庫町で降ろされたりバス通学は子供心に苦しい物でした。
町宅はまるで「渡邊」の台所よりも狭まくて逃げ場もないし寝るのも食べる時も同じ部屋でした。
でも遊び場は常に三越の屋上や丸亀町で町っ子として育った時間が長かったように思います。
父(順久)は二度結婚しています。
一度目は父の4歳上の姉(私からは伯母)の友人とでした。
県外人だった事と子供が生まれなかった事、嫁姑が原因だったようです。
二度目の母には私が生まれ祖父母に取って初めての内孫になりました。
「渡邊」は祖父が無学でも祖母は聡明で三本松の旧家から嫁入りしていました。
町長選挙も祖父に代わって決めごとに参加していたようです。しっかり者だったようです。
土地問題で騙されたりいろいろ悔しい想いをしたのは教育だと思った祖父母は3人の姉弟に東京での大学生活をさせています。学費の為に土地が減りつましい生活なったようです。
母と結婚する時に「おまえさん、この家は大きくともあまるお金はありませんぞ!」としっかり釘を刺されたそうです。
「渡邊」は信心な家で一年の行事は神仏中心で行われていました。言い伝えや先代からの習わしが全てでした。
(父の代になって揚家から神社を邸内に移築)

ご先祖の魂が「渡邊邸」を今もなお守っているような気がします。
父が亡くなった後、しばらくこの家も迷走しました。
家を貸してほしいとか茶室を移築したいと大きな会社の社長さんも見に来られました。話が進みかけると何故かどちらからともなくキャンセルになるのは先祖から「あなたが守りなさい!」と言っているのではと思います。・・・荷が重いけど・・・。
08/27/2010

Big PaPa


随分と退屈な子供時代を過ごしたなぁと今でも思います。
父が40代で初めての子供であった為に異常に可愛がられました。
本来はオテンバ娘で好奇心一杯なのに好きにできない窮屈さがいつも心のどこかでムズムズしていました。
「渡邊」で過ごす夏休みは何もありません。
訪ねてくる客様とお話をするだけで学校の友達は来れる距離ではないので一人で日が暮れるのを待ていた夏休みでした。
只、ご近所で一人だけ遊んでもいい友達がいて「渡邊」にいるといつも彼女と会うのが楽しみでした。私よりも一歳年下でしたがいつも私の帰りを待っていてくれて川の魚とりや秋の稲刈りの後の藁の中で遊んだりが最高に楽しかった。
でも中学になった時に彼女が不治の病で急死して私はこの友の死で深く落ち込みました。
細い道から小さな棺が私の前を通る時の悲しさや寂しさがこみ上げて父の横で泣きじゃくった事を今でも忘れられません。
今、生きていればきっと「渡邊邸」の力になってくれたはずです。
父は可愛がりの度が過ぎて時に私がいなくなったり思い通りにいかないときつく叱りました。
食べる時の態度、お客様へのご挨拶の他に門限には極端に厳しくて友達の家から帰る時間(大人になっても)に少しでも遅れたらひどい時はビンタが来ました。そして一番怖かったのは真っ暗なお蔵に入れられた事です。
白山の麓の池に行った事で父の心配の尾が完全に切れたのでしょう。一瞬の間に私が居なくなって村中が大騒ぎとなっていたからです。たまたま一緒だった村の子供達は親まで呼ばれて叱られたと後から知りました。
何も知らなかった私は事の大きさにびっくりしました。
悪気は全くなくて興味だけでした。
これがトラウマになってずっと大人になる・・・いえここ10年くらい前からやっと入れるようになりました。
今の私のチャレンジ精神やフットワークの良さは子供時代の反動です。
そして何よりも我が子達の子育ては自由!と彼らが決断した事によほどでない限り反対をしない!でした。

08/29/2010

ブームの外側に


昨日は「渡邊邸」お茶カフェ&お稽古日でした。
通称「ちひろ日」。(彼女が取り仕切っているので)
9月に入って異例ではありますが、まだまだ暑いので「氷点前」をしました。

水指しの中でカラカラと氷の音が涼を呼びます。
水によく溶けるキメの細かいお抹茶です。
飲みやすくてどなたにも好評で珍しがられます。
今回はお茶室に興味のある方々がお集まりでしたので説明をさせていただきました。
実は私もこの家を3年前から再建しながら学んだ事ばかりです。
当初は母がお客様に話しているのを聞きかじりながら自分なりに父の思い出もお話できるようにしました。
きっとあの世で「お前がそんな事をしているのか・・・」と呆れているか喜んでいるか・・・微妙です。
昭和43年11月10日 「讃岐の茶室」 毎日新聞社 
当時、毎日新聞社から瀬戸内海放送報道局長になった十河信善さんが「まえがき」で香川と茶室の関わりを書いています。
茶が讃岐で話題になったのは
南北朝時代。
足利将軍義栓の執事、細川清氏が南朝に寝返って東讃三木郡白山に兵を挙げた。
直接の原因は将軍清氏の招宴をすっぽかして闘茶会に臨席したのを怒った為とされています。
利休以前から讃岐と茶の縁は深かった。
高松藩主松平家は武者小路千家初代一翁が茶頭として使えtもに茶道が盛んだった。
もう40年も前に出版されたこの「讃岐の茶室」に10ページにわたって「渡邊」の茶室が登場しています。
比べてみるとあったものが無くなっていたり庭の様子も変わっています。
父が丹念に作った茶室の息が聞こえてくるようです。
両親が愛でたこの茶室で華やかな茶事が何度も開催されました。
今はお茶の世界が嫌いだった私が何かに導かれるようにこの家と関わるようになったのも運命と言うしかありません。
またじっくり読んで勉強いしたいと思います。
そしておいでいただくお客様に「深い事を面白く」お話ができるようになりたいと思っております。
09/05/2010

次の世代へ


特異な環境の中に育ち普通でない暮らしと両親の生き方が私のコンプレックスでした。
もっと普通な暮らしはできないのだろうかと幼心に悩みました。
でも少々お勉強ができなくとも不思議と優秀な友達がいつもそばでいてくれて学校に行くのは楽しみでした。
主要教科以外の体育、音楽は得意で運動会、音楽会では活躍の場がありました。
齢を重ねても素晴らしい人脈に助けられているのは子供時代と変わらないのではと思います。
さて、「揚 家」とは何でしょう・・・・。
最近、来られるお客様も揚家に興味を持って来られる方もいらしゃいます。
ここに来ればあの「揚家」の茶室が見られるとの問い合わせもあります。
父が亡くなって頻繁にお蔵に入る事になった私は父の山の様な書籍の中から小雑誌を見つけました。
ずっと読む事もなく保管していたものをこれを機会に読んでみました。
「揚 氏の茶室」昭和31年11月18日
四国の大玄関、高松駅を高徳線を発車して五剣山を遠くに仰ぎ旅人は鬱蒼たる一段の森、その森を包囲する分厚い土塀、大長屋門、幾棟かの瓦葺きと藁葺の家構えが誰しもがアラッと驚くようである。
これが書き出しです。
この大邸宅は讃岐切っての豪家、代表民家として知られた揚 欣之助氏の屋敷。
また一般には長者と呼んでその昔、源平の際には源氏の弁慶が兵糧米を借りに来た家。
一帯が源軍焦土戦術で焼き払われたにもかかわらずこの揚邸だけは残ったのは、源氏に先ず味方したからだと言われている。
揚の屋敷は通称では単に「長者」と行って部屋の数は52あったが間取りは秘せられていた。
主人は御前様、その子女は若様、お姫様と呼ばれた。
あとがきには牟礼の里や屋島壇ノ浦に、源平のしのぎを削って以来、悲歌と哀愁に織りなした数々の軍記を彩る豪族名門の大民家の長者屋敷も時代の波の起伏にはそむけじして、ここに新しき主の手によって改装されようとしている。
現在はその3000坪の敷地もすっかりなくなり知る人も少なくなっています。
「渡邊邸」を語るには「揚家」を知らないといけないなって思ったらひょっこり出て来たこの資料はタイミングが良すぎる。
かなり高度な内容ですが、生きながらえた「揚家の茶室」を受け継ぐ身としては読まざるを得ません。
お勉強は嫌いなのですが…。

「揚家物語」NO1になりそうです。
09/06/2010