渡邊邸物語

vol.3 栄枯盛衰

揚家から渡邊へ

「雀巣庵」は4人の掃除乙女隊ですっかりきれいになりました。
少しずつ蘇って私もモチベーションが上がってきました。
さっかくきっかけを作ってくれた彼女たちに次はここでお茶をゆっくり飲んでもらえたらと思い2か月余りかけて私は各お茶室の掃除をしました。
とても孤独だけど私がやらなければ何も始まらないと思いました。
それは目に見えて綺麗になりました。
それでも母は「こんなんじゃ、人は呼べないし無理!」・・・・・少しはよく頑張ってるね・・・って言ってくれればと何度も思いました。母は昔の「渡邊」の最高の輝きをはっきりと記憶の中で生きているのでなかなか納得してくれなかったのです。
お茶室が5つも6つもある家自体が想像できないでしょう。
50年前に亡父は縁続きでもある古高松の豪農「揚家」(あげけ)から譲り受けほとんどを移築しました。
揚家は時代の中で経済的にも苦しくなり3000坪の敷地の3分の2を銀行の社宅に処分ました。
敷地内の由緒ある茶室はどうしても揚氏が壊すのには忍びなかったのでしょう。
数寄者だった父にそれを託したと聞いています。
当時、小学生だった私も何度も揚家に行きました。
すでに草が生い茂りその頃の私には只の壊れかけの家にしか見えませんでした。
ご家族のお住まいは結構、近代的で籐の敷物の上に座って冷茶を飲んだ記憶があります。
おじ様はやさしくおば様は色が白くてとても品があって美しい方でした。
今でも東京で90歳を超えてご存命でその美しさは変わらないと伝わってきました。
お二人の間にいるお子様も皆さんお品があってお嬢様はとびきりの美人でした。
元々の「渡邊」は庄屋で農家でもあるので住まいの形もお茶室が合うはずがありません。
父がどんなに考え研究をして現在の「渡邊邸」になったか想像もできません。
ただ、毎晩寝床に入って新聞紙に墨で図面を書いていました。
移築に当たっての設計士がいた訳でもないので全てが父の思いのままに建てられました。
その為に何度も京都へ行きました。
もちろん一人娘の私を連れて。
父は学校教育よりも一流の物を見ることを重視していました。
普通に学校に行きたい私は学校を休む事も辛いし子供にとっては拷問の様な美術館や古美術、お寺めぐり。
東京に行けば歌舞伎観賞は必ず組み込まれていました。
普通じゃない人・・・・それが父でした。
気難しく寄せ付けない雰囲気なのに相手が気に入ればとことん話をして話術も上手くていつも誰かが来てよもやま話をしていました。ただ、気に入らないとバッサリ切ってしまう怖さもありました。
明治生まれの父は生涯をお茶にかけ他人にも自分にも厳しい生き方でした。

07/23/2010

PAGE TOP