渡邊邸物語

vol.10 渡邊の夏

意思を継ぐもの
夏休みもあと数日になりました。
私の子供時代の夏休みは8月1日から31日の一カ月。
いつから7月20日から始まるようになったのでしょう。
暑さも今みたいに毎日36度はなくてぜいぜい暑くて32度程度だったような気がします。
もちろんクーラーもなくて扇風機があるだけです。
家の人は夕方になれば家の周囲に水をまいて涼を取っていました。父親はステテコ姿で母はクレープの今で言うタンクトップワンピースみたいなのを着ていました。
私は両親と共に「渡邊」と番町にあった町宅を行ったり来たりしていました。
「渡邊」から市内の学校(四番丁小学校)にバスで通っていました。
あの頃は人口も多いのでバスも鈴なりで窓やドアから人が落ちるほどでその周囲を自転車通勤の人たちが取り囲むように走っていました。五番町の停留所で降りられずに兵庫町で降ろされたりバス通学は子供心に苦しい物でした。
町宅はまるで「渡邊」の台所よりも狭まくて逃げ場もないし寝るのも食べる時も同じ部屋でした。
でも遊び場は常に三越の屋上や丸亀町で町っ子として育った時間が長かったように思います。
父(順久)は二度結婚しています。
一度目は父の4歳上の姉(私からは伯母)の友人とでした。
県外人だった事と子供が生まれなかった事、嫁姑が原因だったようです。
二度目の母には私が生まれ祖父母に取って初めての内孫になりました。
「渡邊」は祖父が無学でも祖母は聡明で三本松の旧家から嫁入りしていました。
町長選挙も祖父に代わって決めごとに参加していたようです。しっかり者だったようです。
土地問題で騙されたりいろいろ悔しい想いをしたのは教育だと思った祖父母は3人の姉弟に東京での大学生活をさせています。学費の為に土地が減りつましい生活なったようです。
母と結婚する時に「おまえさん、この家は大きくともあまるお金はありませんぞ!」としっかり釘を刺されたそうです。
「渡邊」は信心な家で一年の行事は神仏中心で行われていました。言い伝えや先代からの習わしが全てでした。
(父の代になって揚家から神社を邸内に移築)
ご先祖の魂が「渡邊邸」を今もなお守っているような気がします。
父が亡くなった後、しばらくこの家も迷走しました。
家を貸してほしいとか茶室を移築したいと大きな会社の社長さんも見に来られました。話が進みかけると何故かどちらからともなくキャンセルになるのは先祖から「あなたが守りなさい!」と言っているのではと思います。・・・荷が重いけど・・・。

08/27/2010

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